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3 翌朝、アイツは予告通り部屋から消えていた。 サイドボードに二人分の宿泊費。あと千円札が一枚……電車賃ってか? 遠慮なく使わせてもらうよ。サイフの中身すっからかんだし。 なんだか頭がぼぅっとする。昨日たくさん飲まされたから。 実はあんまり好きじゃないんだ、お酒。 ゆっくりと体を起こす。そろそろ始発が動く時間だ。 吐き気もおさまったし、観念して帰るとするか。 総勢二十六人、大所帯の「わが家」に。 「―――おはよう、慧(けい)くん」 出迎えてくれたのは小島(こしま)さん。朝帰りの俺に、いつも通りの笑顔。 児童養護施設の主任保育士で、俺らの「かあちゃん」。五十過ぎの、人の良さそうなおばちゃんだ。 俺は雑に脱いだスニーカーを玄関横の靴箱に押し込み、無言で食堂に向かった。 ついてくる小島さんを無視して、食堂入口にある手洗い場の蛇口を捻る。生ぬるい水がじゃあっと出た。 手をこする横で「かあちゃん」がテーブルの上にプラスチックの皿を並べ始める。 「昨日は『友達の家に泊まる』って連絡入ってたけど、ちゃんとご飯食べた?」 俺は返事の代わりにハンドソープのポンプをガコンと押す。 「……病院は、行ったの?」 「行く意味ないよ。もう飛べないんだから」 俺はハンドソープのポンプをガコガコ押した。中身切れてるじゃん、イラつく。 「毎日通ってリハビリしなきゃ、成長期の事故は後遺症が出やすいってお医者様が」 「ンなもん勝手に出てろっつんだよ、知るか」 俺は濡れた手をタオルで擦って食堂を飛び出した。 後ろで名前を呼ぶ声がしたけど、無視して廊下奥の自室へ駆け込む。 勢いよくドアを開けたら、同室で一つ年下の聡がびっくりした顔で「お、おかえり」と言ったけど、 それも無視して二段ベッドの上段に駆け上がり、寝転んで両目をぎゅっと閉じる。 頭痛ぇ……完全にキャパオーバー、飲みすぎ。 「――ちょっと、慧!いい加減にしなさい!!」 はきはきとした怒鳴り声。ベッドの手すりから見慣れた大きな瞳がにゅっと飛び出す。 俺が一瞬たじろぐと、ヤツは手にした枕で俺の頭をバフッと叩いた。 「痛ってェ……恭子てめぇ!」 「あんな口きいてアンタいったい何様!?小島さん、寝ずに待ってたんだからね!」 二つ上でしっかり者の恭子は、俺らの「ねえちゃん」……というか、アネゴリーダー的存在だ。 親を知らないチビッ子どもは、世話好きな恭子にガッツリなついている。 「小島のオバハンや、お前みてーなおせっかいがいるから帰りたくねーんだろが」 ボフッ!恭子がすかさず2発目を入れてきた。 「って!やめろバカ!」 「もう切り替えなさい!事故から三ヶ月でしょう」 まったく、と小さく呟くと、恭子は床に降りて俺の服を片付け始めた。 「小島さんはアンタを大目に見てくれてる……でも、他の職員さんはそうじゃない人もいるんだよ」 畳んだトレーナーを引き出しに仕舞いながら、恭子は深くため息をついた。 「『慧はもっと厳しい施設の方がいいんじゃないか』って……そんなの嫌でしょ?」 ――三ヶ月。もう、そんなに? それとも、まだ?それくらい? どっちにしろ、俺の時間はあそこで止まったままだ。 三ヶ月前まで、俺は走り高飛びをやっていた。 生まれてからずっと運の無い俺にとって、それはやっと見つけた「希望」だった。 親の顔を知らない。 赤ん坊の頃から、同じような境遇のガキがわんさかいる場所で育った。 小さい頃は気づかなかった。でも、大きくなるにつれて気づき始めた。 フツーの奴らがフツーにもらえる愛情や、居場所。金や、権利。 そういうのを全く持ってない。俺は心底ウンザリした。 中学に上がる頃には完全に拗らせてしまっていた。 何もかもが無意味で、憂鬱だった。自分だけの居場所が欲しかった。 中一の春、俺のスポーツテストの結果を見た陸上部の顧問に誘われたので、とりあえず入ってみた。 正直めんどくさくて気が乗らなかったけど、他にやる事なかったし、 部活なら帰りが遅くなっても怒られないから、とりあえず続けてみた。 んで、背面跳びのフォームをマネしてみたら、いきなり部の誰よりも高く飛べた。 皆が驚きの声を上げ、顧問の先生から興奮気味に肩を叩かれた。 その時俺は考えた。これって『武器』になるんじゃないか? 俺にとって唯一の『武器』に。 そこから夢中で練習した。もっと高く、もっともっと高く。 バーの目盛りが上がる度に自由になれる気がしたし、誰も手の届かない所まで飛べそうな気がした。 ―――そして二年生に進級した頃、有名校から特待の話が来た。 奨学金、授業料免除、専属トレーナー、自分だけの個室!マジで夢みたい!! そういうのがずっと欲しかった。そして全部、自分の力で掴んでやった。 俺は有頂天になった。今までたくさん我慢したけど、ようやく報われるんだ。 きっとここから、俺は幸せになれるんだ―――。 ……でも。 確かに掴んだと思ったそれは、夏休み直前、ホントに夢みたいに消えちまった。 運転してたのはハタチの大学生。飲酒運転。 脳に障害が出なかったのが奇跡ってくらいの、大事故だった、らしい。 詳しい事は覚えてない。その辺りの記憶が無いから。 覚えているのは、事故ってから二週間後。白い部屋で見せられた右足のレントゲン写真。 『脛骨・腓骨とも粉砕骨折しており、プレートと髄内釘を二本、ボルトで固定しています。 まだ若いですし、きちんとリハビリを続けていけば日常生活に支障は出ないと思いますが……』 ――おい、医者。今なんて? 『飛べない』って何だよ。 『あきらめて』って、何なんだよ。 小島さんが泣いてる。どうして? このオッさん、何言ってんのか全然わかんないんだけど。 二人とも真剣な顔して冗談キツ過ぎ。 ねぇ、簡単に言うなよ。バカ野郎。 もういい、話すなよ。聞きたくない。 それがどういう意味か、わかってんの? これだから病院って嫌いだ。消毒液の匂いも、真っ白な壁や天井も、不安になる。 ……ねぇ、だからお願い先生。全部嘘だと言ってくれ。 小島さん、そんなに優しく俺の背中をさすらないで。 リハビリも、なんでもする。痛い手術だって何度でも受ける。だから、 どうか、先生。 どうか、神様。 俺から奪わないで。 俺の全てなんだ すべての希望だったのに。 「――慧、聞いてるの?」 薄目を開けて見下ろすと、いつの間にか恭子が教科書を机に並べ始めている。 「入院で遅れてる分も取り戻さなきゃ。中二で油断してると中三になって慌てるよ?さ、見てあげるから」 「ほっとけよ。おせっかい。ブース」 「……あっそ、わかりました。ではスパルタでいきます!」 恭子の顔から笑みが消え、その代わりにドン!ドン!と音を立てて積み上げられていく参考書。 ウザいウザい。やっぱ帰ってくるんじゃなかったよ。 でも金ねーし。またあの街で稼ぐしか……、 俺は少し身体を起こすと、二段ベッドの上から部屋を見下ろした。 恭子は何やらブツブツ言いながら教科書に付箋を貼っている。意地でも勉強させる気だな?ゴリラ女。 ベッドの下段にいる聡は、俺達のやり合いに気を使いつつ、静かにサッカー雑誌を読んでいる。 ―――俺がウリやってること知ったら、コイツらどんな顔するだろ。 恭子はケッペキだから、怒り狂ってタコ殴りにされるだろうな。 聡は『ウリ』って単語を知ってるかすら、ビミョーだ。 小島さんは……男がウリやるなんて理解不能だろ、おばちゃんだし。 つーか、全部知ったら卒倒するかも。 めっちゃ怒って、呆れて、俺なんか見捨てるかも。 んで、ここよりもっと厳しい施設に入ることになって、小島さんも俺なんか忘れて……。 別に悲しくない。なのに、胃の辺りが少しぎゅっとした。 昨日の吐き気はおさまったはずなのに。 昨夜、ずっと俺の帰りを待っててくれた小島さん。 もし俺が死んだら、悲しくて泣いたりするのかな。フツーの親みたいに。 ――『また会えるといいなぁ』 脳裏にアイツの顔が浮かんだ。 なんで今、急に? ムカつく面(つら)だ!さっさと消えろ!俺の頭の中から!! だけど、いくらそう念じてもアイツは消えてくれない。 すげーむかつくし、すげーカッコつけてるし、すげーアブないヤツなのに、どうして。 ――『それまで無茶すんな』 大きな手のひらが乗ってる気がして、慌てて頭をぶんぶん振る。 うわー!消えろ消えろ!あんなの社交辞令だっつーの! それとも俺、クスリ的な何かを嗅がされたとか!? 「ほら慧!ゴロゴロしてないで降りといで!」 恭子の怒鳴り声でハッと我に返る。 仕方ない……ここはいったん言う事聞くフリしよう。 そんで隙を見てサクッと逃げる。うん、そうしよう。 金なんて知るか、どうとでもなる。またウリやればチョロいもんだよ。 とにかく今は、おせっかい恭子から逃げるのが先だ。 俺は渋々ベッドの手すりに手をかけると、ノロノロ一段ずつ足を下ろした。 途中、聡が読んでいる雑誌がチラリと見えた。ふぅん、高校サッカーの特集記事……、 梯子の途中で止まってしまった俺を見て、恭子が不思議そうに聞いてきた。 「どうしたの?け……」 「ちょっと貸せ!」 梯子から飛び降り、聡の手にあるサッカー雑誌をひったくる。 呆気にとられている聡の肩を恭子が庇うように抱きとめた。 「ちょっと!聡がおとなしいからってそんな乱暴に」 「ごめん、すぐ返す……!」 記事のタイトルは『次世代を担う若きプレイヤーたち』。 真ん中に載ってる1番大きな写真。逞しいユニフォーム姿。大人びた笑顔。 高三にして有名クラブのスカウトが複数。国体選抜、U-19の要、エリート中のエリート……。 ――アイツ、こんなに有名な選手だったのか!? 腹の底が熱くなっていく。 こんなに恵まれて。こんなに何でも持ってて。 なのに、アイツは。 雑誌を握り締める手が徐々に震えてきた。 知ってる。この世は不公平だって事。 アイツは全て持ってるのに、俺は何も持ってないって事。 だからアイツは俺に言ったんだ。 ――『関係ないな。お前には』って。 記事に大きく印刷された難しい名前を、もう一度しっかり確認する。 あぁ、まったく関係ないよ。 だから、まったくわからない。お前の気持ち、これっぽっちも。 そんなにいっぱい持ってるクセして、逃げ出すヤツの気持ちなんか。 聡に雑誌を突き返した。強く握ったせいで表紙の端が折れていた。 俺は「新しいの買ってくる」と言って、そのまま部屋を飛び出した。 後ろで恭子の声がしたけど、やっぱり無視した。 ――「来るのは来月末」って言ってたよな。 またお前は逃げるんだろ?満たされた光の世界から。 「会えるといいな」だって。 上等だ。会いに行ってやるよ、こっちから。 何もかも持ってるお前に、何も持ってないのがどんな気持ちか教えてやるよ。 それまで首洗って待ってろ、『本石灰 暁(もとしっくい あきら)』。 |